不安障害の患者が「結局何が不安なのか?」について考える

このサイトの夫は不安障害を5年ほど患っている患者です。家族や医者、カウンセラーなどからよく聞かれるのが「何が不安なのか?」という点です。これ、意外と難しい質問です。一体何が不安なのかについて考えてみました。

直接的な不安と根本的な不安は別

私の場合は直接的には家の外に出ることが不安です。

じゃあ家の中にいれば何もかも問題ないのかというとそういうわけでもなく、心の中ではずっと不安を抱えている気がします。

結果的には外に出るのが不安という形で発現しているものの、根本的にはそこではないのではないかと。

何一つ確実なものがない世界そのものが不安

では何が根本的に不安なのかと突き詰めると、この世界そのものである気がします。

この世の中には何1つ確かなものがありません。大地震や戦争は明日起こるかもしれないし、お金をためてもインフレ等で紙くずになる可能性もあります。職をいつ失うかもわからないし、大切な家族も突然病気に倒れる可能性もあります(私のように)。

さらにいえば、自分がなぜこうやって見て、聴いて、考えることができるかもわかりません。この世界はビッグバンによってできたといわれていますが、その前の「無」だった状態はどういう状態なのか想像すると怖くなります。そこから偶然が重なって我々が生まれたといわれますが、自分が存在しているということ自体なぜなのか(何のために、ではなく、どうやって、の意味で)わかりません。

こんなにわからないことだらけの世の中で何をしてどうやって生きればいいのか、確実な答えは存在せず、すべては確率的に高いか低いかしかないように思います。

不安を感じないために仕事を頑張っていたけど

そんなよりどころのない不安を感じないためには、目の前にあることに一生懸命になれば良いといわれます。仏教でもそうですし、哲学的にもそのようなことはよく言われています。

そのために目の前にある仕事を一生懸命やっていたのですが、結果的には倒れてそれもできなくなってしまいました。

休職してからは仕事はできず、かといって他のこともできずで、何のために生きているのかわからずさらにつらくなっていました。

休んでいるうちにだんだんと回復してきて趣味のことができるようになりましたが、これも何のためにやっているのかを突き詰めると怖くなることがあります。頭をよぎるのはアリとキリギリスの話です。

死にたいわけではないのと生きている意味がわからない矛盾

なぜ生きているかもわからないし、何のために生きているのかもわかりませんが、かといって死にたいわけではありません

死ぬのは正直怖いです。今、こうやって物事を考えている自分が死んだらおそらく思考というものなくなり無になります。それはいったいどういう状態なのか考えると恐怖を感じます。

一方で何のために生きているのかわからないのでそこに矛盾が生まれ、苦しいのだと思います。

悟りを開く?割り切って生きる?

おそらくこの根本的な不安には答えはないです。悟りを開くのか割り切って生きるのか、いずれかになるのでしょうか。

宗教が死後の世界を提示しているのはこういった根本的な不安を解消するためであるように思います。残念ながら今のところどこかに帰依できる気がしないのでこれも解決方法になりそうにありません。。。

今のところはこういった不安を考えないようにして、日々を精一杯生きるしかないのでしょうね。

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